昭和54年05月04日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神をみな信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず、大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 まあこれはこのこういう道理のものだと、言う事が誰でも分かりますね。それこそあの人にも頼んどる、この人にも頼んどるでは、矢張り物事というものは、はかどりません。いかにもそれが良かろうごとあるけれども、やっぱりいけません。神信心してもやっぱり同じ事だと。あちらにもこちらにも頼む、と言うたのではやっぱり、神様の世界でも同じ様な、いわば一心が立たんという訳です。
 私はここでだから一番分からせて頂かなければならない事は、そう言う事はもうここに説明がしてあるから分かりますけれども、神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられると言う所が、大変難しいと思うです。いやもう私しゃ金光様だけ一本だと言うても、んならすぐにおかげが受けられないでしょう。だからすぐにおかげが受けられると仰っておられる。どう言う事だろう。
 生きた神様の働きを信じ、そして生きた神様の働きを分からせて貰い、そこから一心を出すと言う事でないと、すぐにおかげが頂けると言う事には、繋がらないと思うですね。昨日は熊谷さんの所の謝恩祭で、もうそれこそ年年歳歳本当な有り難いお祭がでけていく事を本当に有り難いと思いますが、8時からのお祭です。ですから丁度私共用意でけておりましたら、あの繁雄さんが8時になりましたからと言うて、案内に来て下さいました。して立たせて頂きましたら。
 あの繁雄さんが「ちょっとお待ち下さい」。まあだ8時のあのあれが鳴ってないわけ。その8時の時計のあれがねうん。私が何時もその私のまあ御祈念中ちゅうかその合間、例えばあの結局神様がこんなにも間違いないんだよと、いつも私が時計の振り子の音からでも、それを私がいつも感じる訳です。神様間違いがないなあという風にね。だから繁雄さん心得てあるもんですから「あ時計が八時打ってから出て下さい」とこういう訳だった。うん「うんにゃよかがの」ちいゅうちから、まあそのまま出ました。
 そして私共がそこへ着席をして、佐田先生がああ奏上詞を上げるために、御神前に座らせて頂いて、懐からその祓詞を出してこう広げておる内に、じんじんじんじんと鳴ったでしょう。さわらないでしょう一つも。ああそうのなら時計が打ってから出ろうかというたんではね、神様をそこに感じる事がでけんのです。そうでしょうが。だから昨日も申しますように、段々信心をさせて頂いて人情を使う世界から、神情の世界に段々移っていく。歳を取るに従って有り難くなるというのは、人間心を使わんですむ。
 いうならば神情一筋一本で、出来る信心生活が出来るようにならなければ、いわゆる神をそこに感ずる事やら、神様の働きを密にああ間違いないなあという、そういう瑞々しいというか、さらな有り難いというものが生まれて来ない訳。昨日ある教会の記念祭で、ここからもお参りいたしました。秋永先生が帰ってからすぐ、今日はもう大祭にとにかく先生方がずっともう参列して、あの参向になります。そしてご神前に付かれると同時に停電になった。こんな気色悪い事はないですよね、やっぱ。
 恐らく教会長先生が「すいません」としっかり、わたしゃ神様にお詫びになったと思いますよね。それこそ大祭特に記念祭といや、もう何ヶ月も何ヶ月も前から、一生懸命祈りに祈り、してもうたまたまその今からお祭が始まろう、着席がすんだ今からお祭が始まるという時に、御神灯がぱっと消えるんですもん。ねえこれはもう教会長としてご信者さん達も、一生懸命祈られとったろうとこう思うです。
 それで一生懸命お詫びをされた、だろうとこう思うです。それでもうそのお祭が済んで、教会長先生が挨拶になった、その時私は、まもと取ったと言う様な感じがしたんですけども、と言うてその秋永先生が言ってましたが、先生教会長先生がご挨拶が終られるのと、町の12時のサイレンが鳴るのが一緒じゃった。終った、瞬間だったそうです。ね、だから、秋永先生はこれでもと取った、神様のお許しを頂けたという感じがしたというのです。だからね私思うのですけれども。
 その良しにつけ悪しきにつけ、私共の場合はどこにお粗末があるやらご無礼があるやら分かりません。だからならお話中にジャンジャンジャン鳴ると、なんか邪魔になるような事が起って来る、ならまこれが私の場合であったならそれを、あ間違いがあっとったに違いないとお詫びをするが、ましてやそういう記念祭の大事なお祭に、その停電ですからご神灯は勿論、全館電気が切れてしまう。もうそれこそはっとする程に「すいません神様」という、これはまあ信者一同又は、教会長先生は尚更の事お詫びをされた。
 お詫びをされたら次の瞬間に何時間か、お祭を済んでご挨拶になった時に、又皆さんに、そのこうしてご挨拶があっておる時に、ジャンジャンジャンジャンというでしょうかサイレンがウーッちうなったら、やっぱいけませんでしょう。所がご挨拶が済んだのとサイレンが鳴り出したのがいっしょだった。はぁ神様がこれでお許しを下さったんだなあ。だから良しにつけ悪しきにつけそこに神様が、感じられると言う事なんです。
 私しは金光教の信心というか、合楽の信心はそこん所をいい加減にしたら、生きた神様、何時まで経っても頂けないと思うです。今日皆さんに聞いて頂きたいのはね、そういう言うならばリアルなと言うか、密なと言うか、ね、神様の働きをいつも、それ良しにつけ悪しきにつけ感じれれる、神経です。そこに生きた神様を信ずるという事になるのです。良しにつけ悪しきにつけ。そしての一心でなからなければ、すぐにおかげが受けられるという事にはならないと思います。
 今のその記念祭の、いわばようやく着席がすんだ、さあ今からお祭が始まるという時に停電する。だからそこにおそらくは詫びられたに違いはない。所が次の瞬間には、もうその詫びを許してやったと言わんばかりに、いうならばきちっとしたおかげを受けておられるでしょう。おかげでお祭がお詫びをされる、しみじみとしたねそれこそしみじみとした、お祭が出来られたに違いないと思います。言うならば六十年かね記念祭、それこそ六十年の事をお礼を言うと同時に、もう心からのお詫び。
 又このお祭を奉仕さして頂くのに、どこにお粗末御無礼があったやら分かりません。相すまん事ですというお詫びがでけた、お詫びをしたら神様がもうすぐに、許してござるでしょうが。私は今日はそこん所をね皆さん、すぐにおかげが受けられると言うのはそういう事であると同時にです、それ程に神様を身近に生に、頂いてからの一心でなからかければ、すぐにおかげが受けられると言う事には、ならないと言う事を、一つ聞いて頂いた訳です。また分かって頂かなきゃならんと思うですね。   
   どうぞ。